石川県野球協会 
所在地:石川県金沢市北塚町東220石川県立野球場内
創 設:1946年(昭和21年)3月

1、基本理念
 子どもから高齢者まで野球を通じた人づくり

 1947年(昭和22年)、第2回国民体育大会が本県で開催されることとなり、これを実現成功させるために、県内全域の野球組織を結集して、石川県野球協会が設立された。
 以来、軟式野球から硬式野球にいたるすべての部門を統括し、子どもから高齢者までの野球を通じた人づくりに鋭意取り組んでいる。

2、沿革
◇設立の経緯
 本県における野球のはじまりは明治20年に第四高等中学校(後の第四高等学校)が創立されてからといわれている。明治25年、同校学友会組織に「ベースボール部」が創設され、当時の小学校や中等学校、師範学校に野球に関する知識を普及し、大正4年の第1回全国中等学校優勝野球大会の石川県予選は、参加校がなく開催できなかったが、翌年の第2回大会には、金沢一中、金沢二中、金沢師範、金沢商業、七尾中学の5校が参加するまでに及んだ。一方、野球の普及は子どものレベルにまで浸透し、小学校野球や高等小学校野球、町内対抗野球が盛んに行われるようになり、大正11年、金沢小将町・小松芦城の尋常高等小学校が第3回全国少年野球優勝大会に初出場した。これが功を奏して大正12年の第9回全国中等学校優勝野球大会に金沢商業が、翌年の第10回大会に金沢一中がそれぞれ北陸代表となって全国大会に出場し、野球熱は一層高まったといわれる。昭和に入り少年野球や中等学校野球・実業団野球が盛んに行われるようになり昭和5年8月23日、金沢野球協会が設立された。当時の協会は、四高グラウンドや金沢公設運動場をメイン会場とする各種大会の開催準備や審判等を行った。昭和16年の太平洋戦争開戦を機に、すべての野球は中止されたが、終戦後の昭和22年、第2回国民体育大会が石川県開催となり、野球場の建設が急浮上するなどから石川県野球協会が急きょ設立されることになった。

◇事務所の変遷
 昭和21年3月設立時の最初の事務所は、会長所在の「北國毎日新聞社(現北國新聞社)」の中に置かれた。協会の使命が、第2回国民体育大会の開催に伴う兼六園野球場の新設等野球施設の確保であった。
 昭和22年10月、石川県営兼六園野球場が完成し、その一室に事務所が開設され、市川直次氏が住み込みで、グラウンドキーパー兼務で事務所を担当した。昭和49年3月、新球場の石川県立野球場の完成に伴い、兼六園野球場は閉場され、事務所は新球場に移転し、グラウンドキーパーの田川源三氏が事務所を引き継いだ。

◇当協会の出発点は第2回国民体育大会
 昭和22年、前年の京都府に次いで第2回国民体育大会が本県で開催されることになり、戦後における本県野球界を統括する組織がつくられスタートした。当時大日本体育会(現日本体育協会)石川県支部に所属していた金沢野球協会が中心となって、小松市野球協会、七尾野球連盟と協力して石川県野球協会を設立、第2回国体の準備活動に着手した。
 金沢市の北國毎日新聞社(現北國新聞社)に事務所を置き、県営兼六園野球場を建設、金沢市で中等学校硬式野球を、小松市で社会人軟式野球を開催主管し以後の本県野球の振興発展に多大な成果をあげた。

第2回国民体育大会開会式(小松市芦城公園球場)

◇初の全国制覇をした金沢電話局は昭和43年、群馬県で開催された常陸宮賜杯第4回全日本準硬式野球大会で、全国参加52チームを制し、本県野球界有史以来初の全国制覇を成し遂げた。さらに同年10月福井県で開催された第23回国民体育大会軟式野球競技一般軟式の部で、全国の精鋭28チームを制し、本県国体軟式野球史上初の第1位となった。1年に2回の全国制覇は以後における本県野球界発展の起爆剤となった。

◇公認審判員資格審査制度の導入
 本県野球レベルを全国台にまで引き上げることができた要因のなかに、審判員資質の向上活動がある。戦後に野球が復活した頃、審判の判定をめぐるトラブルが頻発し、時には応援団を巻き込む暴力事件にまで発展したという。このような事態に対処するため、本県ではいちはやく全国台で行われる各種審判講習会に積極的に参加、県内審判講習会指導講師を養成、昭和56年から公認審判員資格審査制度を導入、審判技術の向上と審判員個々の啓発意識の高揚により、審判体制の充実強化に寄与し、今日に至っている成果は極めて大きい。

◇ヘッドコーチ制度で国体総合第1位の成果
 平成3年第46回国民体育大会の本県開催を機に、本県では競技力の更なる強化を図るため、ヘッドコーチ制度を採択、国体参加チームの競技力向上に専念させた。その結果、金沢野球クラブが成年1部壮年で、福島印刷が成年2部でいずれも第1位、成年1部一般でJT金沢が第3位となり、有史以来初の軟式野球競技総合1位となり、120点の高得点をあげた。

◇学童から高齢者までが全国制覇で貢献
 前述の金沢電話局、金沢野球クラブ、福島印刷のほかに、学童から高齢者にわたるチームが全国大会を制覇、以後の野球レベルの向上に多大な貢献を果たした。
 (1)学童部門では高円宮賜杯全日本学童軟式野球大会で、平成8年第11回大会金沢城東メッツ及び平成21年第29回大会西南部サンボーイズの2チームが全国制覇。
 (2)中学年齢層では全日本少年軟式野球大会で平成8年第13回大会及び平成19年第24回大会の2回、星稜クラブチームが全国制覇。
 (3)一般部門では高松宮賜杯全日本軟式野球大会で、平成6年第38回1部大会金沢クレンズ及び平成12年第44回2部大会明治乳業北陸事業所の2チームが全国制覇。
 (4)高齢者部門では日本スポーツマスターズ軟式野球競技大会で、平成21年2009大会DCジパング及び平成23年2011大会七尾選抜の2チームが全国制覇。

 
天皇賜杯第64回全日本軟式野球大会開会式(石川県立野球場)

3、現状の課題と将来ビジョン
◇現況の課題
 (1)登録チーム数の漸減
 本協会軟式野球登録チームは2014(平成26)年度末現在、一般(社会人)170チーム、少年部(中学生)83チーム、学童部(小学生)142チームの計395チームである。これを最盛期と比較すると、一般では1982(昭和57)年の407チームに比べ237チーム減、少年部では2006(平成18)年の91チームに比べ8チーム減、学童部では1985(昭和60)年の182チームに比べ40チーム減、合計285チーム減少した。約5,700人を超える野球人口の減少に及んでいる。
 今後、少子高齢化がさらに進展するなか、野球人口減少の歯止め策の立案が急務である。
 (2)役員の高齢化と後継者不足
 審判員を含めた役員の高齢化が進み、後継者の発掘、育成が急務となっている。なかでも、指導者の後継役員の確保が必要である。
 (3)野球施設の老朽化
 本県の最高野球施設である石川県立球場は、建設後40年を超え、老朽化が目立っている。今後の野球の一層の振興発展を図るうえからも、新球場の建設を含めた抜本的対策が必要となっている。

◇将来ビジョン
 本協会では創立以来、「子どもから高齢者まで野球を通じた人づくり」を基本理念として、鋭意活動を展開してきた。しかしながら野球を取り巻く環境の変化は著しく、登録チーム数の減少、少子高齢化の進展、女性進出への対応等今日的課題の解決が強く求められている。
 全軟連では「新世紀戦略アクションプラン」を制定し、今後の課題解決に向かっているが、当協会においてもこのプランを実行するとともに、以下のビジョンを掲げ、その実現に向けて取り組むこととしている。
 (1)石川ベースボール振興塾(仮称)の創設
 少子高齢化が急進するなか、このまま放置するとチーム数の減少とともに、本県野球競技力の低下並びに地域社会に対するスポーツ振興の役割が果たせなくなる。この弊害を防ぐため、長期的観点に立った地域人材の育成を担う組織「石川ベースボール振興塾(仮称)」を創設する。これからの時代を生き抜く若者たちに野球を愛し、先人がつくりあげた野球の伝統を守り、後世に引き継ぐことのできる人材を育成することは当面の急務である。
 この塾は、これからの地域野球界を背負って立つ若者に、人間教育を行うことを基本とし、子供から高齢者までの野球に係わる人たち(役員・監督・選手・応援者・保護者等すべての関係者)に野球を通じた人づくりの手法を学ばせ、実践能力を身につけさせるもので、ボランティア活動として行う。
 (2)次期メイン球場の建設
 本県の代表球場である石川県立野球場は建設後40年を超え、老朽化が著しく、至近年における抜本的改修が望まれるところである。
 同球場は、プロ野球公式戦の場合、観客収容数が少ないこと、雨天中止の可能性が高いことなどから、プロ野球関係者から極めて不評とされている。
 これらの点を考慮して、早期に次期メイン球場の建設を目指して、関係先の協力、支援を得て鋭意取り組むこととする。

4、組織図

5、定款

6、役員等一覧